青山学院大学古美術研究会は1965年4月に創立されました。創立10周年を記念して1974年12月8日に発刊された『甃・十周年特別記念号』に、創立当時の顧問である須田春子教授と初代・二代の古美術研究会会長である内田喜三さんが寄稿されています。創立当時の様子を伺い知ることができますので、ここにご紹介します。

 

 なお青山学院大学古美術研究会OB会「甃会」は古美術研究会OB・OGの組織として1968年に内田喜三さんを会長として設立されました。

 

須田春子教授の『甃・十周年特別記念号』への寄稿

回想

(前文略)思えば十年の昔、法学部二年だったアドグルの学生内田さんが訪ねてきて、古美術愛好の同士を募って研究会を組織したいと云い出した。当時、青山学院は専門学校としては古い歴史を持ちながら新制大学に発足後日は浅く、学生達の学友会活動の範囲は狭く、部門の数は少なく、今日の如き多種多様な活動の賑わいは見られなかった。なかでも日本文化の研究部門の立ち遅れは、どうひいき目に見ても否めない状況にあった。文学部についてみても国語、国文学よりは英語、英文学。日本史東洋史よりは西洋史という有様で、英米文学科が最大多数の学生を擁してその中心的存在となっていた。

 そうした環境風潮の中で仏教美術を含めた古美術研究会を組織して果たして集まってくる同好の士は何人あるのか些か気懸りではあったが、彼はいかにも自信にあふれていた。また青山の学生の中に日本文化が産み出した古美術愛好者の研究会を結成することは私の年来の願望を一つ果たすことでもあり、万事万般を彼に一任した次第である。

 1965年めでたく古美術研究会は発足した。しかも年内には機関誌「甃」の創刊号を刊行したのである。巻頭に掲げた主旨は今もなお、後に続く同好の士に継承されるところと信じる。十年一昔とよく云われるが、われわれはこれを一つの折目として先輩の苦労に感謝し本会の運営を愈々順調円満に進めつつ、思いを新たにして、明日を切り開いて行きたいものである。

1974年11月14日

 

内田喜三初代・二代会長の『甃・十周年特別記念号』への寄稿

(前文略)「古美術愛好」、戦後の混乱が落ち着き始めてより、静かなブームが続いていたと思われますが、当時、このブームが破られ、時代の太平と共に京都、奈良、鎌倉等の古都には、押し寄せる大波の如く、多くの人々でにぎわい始めてきました。そんな中にも青山学院に古美術研究会が誕生したのは当然といえるかもしれません。しかしながら集まった部員たちは皆、勿論私も含めて、古美術研究会とは一体何をしたらよいのか、それこそ暗中模索の状態でした。そんな私達に指針を与えてくださったのが、快く顧問を引き受けて戴いた文学部の須田教授であり、鎌倉、覚園寺住職、大森順雄師でありました。とにかく、机上の空論よりも出来る限り沢山の古美術に接することであると、さすれば自ずから立派な鑑賞眼が養われてくる筈であると・・・・。

 

(中略=創立後2年間の活動については当ホームページの「ホーム」にある内田さんの「古美術研究会創立50周年を迎えるにあたり」を参照ください。)

 

 これはいつの時代についても云えるかもしれませんが、学生にして「古美術」を研究するということ、職業人ではないのですから、勿論制限はあります。稚拙ながらも議論はあるでしょう。しかしながら、学生生活、お互い何の利害もありません。そこには素直な気持ち、正直な気持ちで古美術の研究ができます。専門家ではないのですから間違った理論もあるでしょう。でも一度しかない青春、共に同じ興味のある人が集い会い、語り合う、自己を知り、祖先を知る、これを出来得るのは、我々、古美術研究会の部員に与えられた特権ではないだろうか。斑鳩の道を歩きながら聖徳太子のことを考え、また、野々宮では平家物語を口ずさみながら肩を並べて語り合う。なんて素晴らしい青春であろう。私は卒業してから七年、仕事の忙しさの中で、年に一度しか古美術に接する機会がなくても、いつも学生時代の経験、また考察を生かして、これからも歩んでいきたいと思いますし、一生、古美術を愛しながら進んでいきたいと思います。

 最後に、今迄、青山学院大学古美術研究会を立派に育ててくれました現役の諸君、またOBの方に、及び関係者各位に深く御礼を申し上げると共にこれからもなお一層のご協力をお願い申し上げます。